Akira野球カード出品中

プロフォトグラファー。 新聞社勤務時代の1995年、野茂英雄投手がメジャーリーグ挑戦した時に、全米各地を転戦。 野球カードマニアだった某社の野茂担当記者に影響を受けて、その魅力にハマる。 日本国内では趣味の範囲内で野球カードを収集。 引っ越しのために過去にコレクションしたカードをヤフオクに出品中。

カルビー2020プロ野球チップス第1弾阪神タイガース編

カルビー2020プロ野球チップス第1弾阪神タイガース
阪神タイガース
第1弾の野球カードリストは
049 糸井嘉男阪神

050 福留孝介阪神

051 髙山 俊(阪神

052 西 勇輝(阪神

053 藤川球児阪神

054 糸原健斗(阪神


の6枚です。
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★049糸井嘉男阪神)★
カルビー2020プロ野球チップス第1弾049糸井嘉男阪神)表面

 

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カルビー2020プロ野球チップス第1弾049糸井嘉男阪神)表面


カルビー2020プロ野球チップス第1弾049糸井嘉男阪神)裏面

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カルビー2020プロ野球チップス第1弾049糸井嘉男阪神)裏面

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★053藤川球児阪神)★

カルビー2020プロ野球チップス第1弾053藤川球児阪神)表面

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カルビー2020プロ野球チップス第1弾053藤川球児阪神)表面

カルビー2020プロ野球チップス第1弾053藤川球児阪神)裏面

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カルビー2020プロ野球チップス第1弾053藤川球児阪神)裏面


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野球カードをゲットするたびに
リストの写真を追加していきます

カルビー2020プロ野球チップス第1弾東北楽天編

カルビー2020プロ野球チップス第1弾東北楽天

東北楽天ゴールデンイーグルス

第1弾の野球カードリストは

013 浅村栄斗(楽天

014 茂木栄五郎(楽天

015 岸 孝之(楽天

016 則本昂大楽天

017 銀次(楽天)   

018 島内宏明楽天

の6枚です。

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★013 浅村栄斗(楽天)★

カルビー2020プロ野球チップス第1弾楽天編013浅村栄斗(楽天)表

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カルビー2020プロ野球チップス第1弾楽天編013浅村栄斗(楽天)表

 

カルビー2020プロ野球チップス第1弾楽天編013浅村栄斗(楽天)裏面

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カルビー2020プロ野球チップス第1弾楽天編013浅村栄斗(楽天)裏面

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★014 茂木栄五郎(楽天)★

 

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カルビー2020プロ野球チップス第1弾014茂木栄五郎(楽天)表面

 

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カルビー2020プロ野球チップス第1弾014茂木栄五郎(楽天)裏

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★016則本昂大楽天)★

カルビー2020プロ野球チップス第1弾016則本昂大楽天)表

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カルビー2020プロ野球チップス第1弾016則本昂大楽天)表

 

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カルビー2020プロ野球チップス第1弾016則本昂大楽天)裏

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★017 銀次(楽天)★

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カルビー2020プロ野球チップス第1弾017銀次(楽天

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カルビー2020プロ野球チップス第1弾017銀次(楽天)裏面

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★018島内宏明楽天)★

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カルビー2020プロ野球チップス第1弾018島内宏明楽天)表

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カルビー2020プロ野球チップス第1弾018島内宏明楽天)裏

 

野球カードをゲットするたびに

リストの写真を追加していきます

 

 

 

 

 

 

カルビー2020プロ野球チップスカード第1弾ロッテ編

カルビー2020プロ野球チップス第1弾ロッテ編

 

第1弾の野球カードリストは

019 荻野貴司(ロッテ)

020 中村奨吾(ロッテ)

021 石川 歩(ロッテ)

022 種市篤暉(ロッテ)

023 井上晴哉(ロッテ)

024 益田直也(ロッテ)

の6枚です。

 

ルーキー・佐々木朗希投手は、このシリーズには入っていないようですね。

第2弾以降に期待しましょう!

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★019 荻野貴司(ロッテ)★

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2020Calbee019荻野貴司(ロッテ)表

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2020Calbee019荻野貴司(ロッテ)裏面

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★020 中村奨吾(ロッテ)★

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カルビー2020プロ野球チップス第1弾020中村奨吾(ロッテ)表面

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カルビー2020プロ野球チップス第1弾020中村奨吾(ロッテ)裏面


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野球カードをゲットするたびに

リストの写真を追加していきます。

カードショップAkiraの店長ってこんなオッサン。自己紹介も兼ねての回顧録

こちらのブログをご覧頂きまして、ありがとうございます。

 

かなりの長文となります。

最後までおつきあいください。

よろしくお願いします。

 

カードショップAkira。といっても別にお店があるわけではない。

SNSでアカウント名を作らないといけないので、テキトーにつけただけ。

 

本職はプロフォトグラファー。

 

ほとんどの方が

「オマエ誰やねん?」

ってな感じでしょうから、自己紹介を兼ねて経歴を紹介させていただきましょう。

 

昭和63年(1988年)に関西学院大学【注1】を卒業して、産経新聞大阪本社に入社。

この新聞社を選んだ理由は、サンケイスポーツというスポーツ新聞も発行しているので、そちらで仕事をしたい、というものだった。

まあ、あの論調が好きだというのもありましたから。

 

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新聞社勤務時代に1面に掲載された写真。新聞社勤務時代の1面掲載写真。2006年W杯ドイツ大会アジア最終予選の日本―北朝鮮戦@バンコク

 

駆け出しの記者だった1988年は、

阪神タイガース史上最強の助っ人と言われるランディ・バース選手が息子さんの病気の治療のために帰国してそのまま退団。

同じくタイガースの日本一を支えた掛布雅之選手が33歳という若さで現役生活に別れを告げた。

タイガース暗黒時代の到来の序章でもある。

 

私鉄を親会社に持つ在阪の老舗球団、南海ホークスダイエーに、阪急ブレーブスオリエント・リース(現オリックス)にそれぞれ身売りをするなど球界の激震に遭遇することとなった。

 

つい1年前までは単なるプロ野球ファンの大学生だった自分にとって、

信じられないことが次々と目の前で起こっていくのだ。

 

いったい、この先どうなるんやろ?

まさか近鉄バファローズは無くならないよね?

なんて当時は心配していた。

 

まだサッカーのJリーグが発足する前【注2】、ラグビーワールドカップで日本にブームが湧き上がるはるか以前のできごとである。【注3】

 

なお関西というエリアは、春はセンバツ、夏も高校野球。年末年始は花園で高校ラグビーと、高校スポーツの全国大会が開催される。

昭和50年(1975年)までは、高校サッカーも関西で開催されていたのは、あなたもご存知のことだと思う。

別にわざわざ東京へ行かずとも、関西でもいろんなスポーツに触れることができた。

 

 

まあ、

なんだかんだと振り回された入社初年度だったが、

翌1989年から希望通り、写真部への配属された。

 

1991年の秋季キャンプからは、阪神タイガースを担当し、亀新フィーバーのあった1992年こそ優勝争いをしたものの、まさに暗黒時代にお付き合いさせていただくことになる。

 

自分自身にとって転機となるのは、

近鉄バファローズの野茂英雄投手がメジャーリーグに挑戦し、ロサンゼルス・ドジャースと契約し、渡米したことだ。

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『野茂アメリカを救ったDr.K 』 1995年発行 Gallop緊急増刊号P.55掲載

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1995年7月9日初めて訪問したメジャーの野球場は、シンシナティ・レッズの本拠地リバーフロント・スタジアム

初めて目にしたメジャーリーグの“ベースボール”は、かつてヤクルトスワローズに在籍したボブ・ホーナーが語ったように、自分がいままで見てきた“野球”とはたしかに異質なものだった。

新人王を獲得したこともあるドジャーズの主砲、マイク・ピアザ。2アウトランナーなしで放った打球はピッチャーゴロ。すると、なんとなんと、ファーストベースまで全力疾走するではないか。まるで高校球児そのものである。

 

他のメジャーリーガーの姿勢もそんな感じだった。

いかに日本の野球が、来日した外国人選手からナメられているか、初めて知る事になる。

 

力vs力の激突。抑えの切り札がストレートを打たれたならば、次の打者にもストレート、また次の打者にもストレート。連打を浴びてもひたすら同じ球種で勝負する。

 

なんでやねん! 配球とか考えろよ!

思わず叫んでいた。

 

日本のように応援団がいないから、ひたすら退屈である。

スタジアムのアナウンサーが盛り上げようとするのだが、こと応援に関しては日本の方がはるかに盛り上がるし、熱狂的。比べ物にならない。

 

 

野茂投手が日本人として初めてMLBオールスターの先発マウンドで投げる勇姿。

ヒューストン、マイアミ、シカゴ、セントルイスピッツバーグ…。どこにいっても超有名人で、日本人として誇らしかったな~。

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1995年9月12日シカゴのマイケル・ジョーダン・レストラン前で。買ったばかりのエアマックス95イエローグラデーション。インターネットがまだ一般に普及していない時代。1カ月後に帰国してから人気が出ているのを初めて知った。

 

 

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オールスターゲーム@テキサス州ボールパークインアーリントン 1995年7月11日『野茂アメリカを救ったDr.K 』 1995年発行 Gallop緊急増刊号P.70~P71掲載

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『野茂 アメリカを救ったDr.K』1995年発行 Gallop緊急増刊号表紙

↑ 1995年ナ・リーグ西地区優勝の瞬間@カリフォルニア州サンディエゴ

 

サンディエゴでのナ・リーグ西地区優勝の瞬間にも立ち会えたこの平成7年(1995年)は生涯、忘れられないものとなった。

 

このとき、某スポーツ新聞の野茂番記者メジャーリーグカード収集家でもあった方に影響を受けてカードを集めることとなった。

 

翌1996年のフロリダ州べロビーチは、お昼頃には仕事が終わるので

あまった時間を利用してフロリダ半島のカードショップ巡りをした。

どんな街にもカードショップがある。

アメリカの文化として根付いていいるのだろう。

 

日本ははるかに及ばない。

悔しい~

 

いまヤフオクに出品しているのは、帰国してから日本のカードショップで購入した野球カードがほとんどだ。

 

もっと、ショップの人だけでなく、いろんなコレクターがヤフオクやメルカリに出品して、売買が盛んになればいいと思う。

 

 

そしたらもっとトレーディングカードの値打ちも上がるのではないだろうか。

 

いまの小学生が大人になったとき、コレクションしたトレカを売りに出せば、

ビックリするような値段がついた!

 

なんて話、夢があっていいと思う。

 

個人的にはカードが投資の対象となるような、そんな世界を夢見ているのだが、

いかがだろうか。

 

こんな長文を最後までおつきあい下さいまして

ありがとうございました。

 

 

これからも

よろしくお願いします。

【注1】『関西学院』と書いて、『かんせいがくいん』と読む。アメリカンフットボールの悪質タックル問題で日大の監督が、『かんさいがくいん』と読んで、OBOGから大ヒンシュクを買った。個人的には読みにくいので、変更しても構わないと思っている。

 

【注2】Jリーグの発足は平成4年(1992年)のことである

 

【注3】ラグビーワールドカップ2019日本大会で日本ににわかラグビーファンが増えて、ラグビーブームが到来する。

どうでもいいことながら、筆者は大阪府立美木多高校時代ラグビー部だった。とにかく弱かったけど、今となっては楽しい思い出である

 

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カードショップAkira

本業はプロフォトグラファー

趣味で集めたプロ野球カードなど

スポーツのトレーティングカードを

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新庄剛志さんが日本プロ野球会に復帰すれば、過去の野球カードも高騰するかも

【4】新庄剛志ベストナインカード

新庄剛志選手は現役時代、
ベストナインは外野手部門で3度受賞している。

引退してからベストナインを受賞することは
できないので、
わざわざ現役時代ということわりを入れる必要性などなかった。

ごめんなさい。

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2001BBMB8新庄剛志カード


そのベストナインのお話。

阪神タイガース時代の1993年、2000年

そして

メジャーリーグから日本プロ野球界に復帰した初年度の2004年、

つまり、
北海道日本ハムファイターズ入団の1年目と併せて合計3度の受賞となる。


ベストナイン初年度の1993年は、
前年に亀山努外野手との2人で亀新フィーバーを巻き起こし
ヤクルトスワローズとの優勝争いを演じた翌年のことで
打率こそ.257と低かったが(新庄選手らしい打率だといえばそれまでだが)
トーマス・オマリーと並ぶチームトップとなる23本のホームランをカッ飛ばした。


おそらく新庄選手自身もノリノリで毎日、野球を楽しんでいたころなのでは
ないだろうか。
阪神タイガース生え抜きのスター候補生として順調にステップアップしていた時期になる。

そこから2度目の受賞となる2000年に至るまでは
さまざま紆余曲折があった。

1994年、オールスターにファン投票1位で選出。
1995年、鳴尾浜での正座事件⇒シーズンオフの契約更改時に引退宣言。
1998年、野村克也監督のもと、秋季キャンプで投手にチャレンジ。
1999年、甲子園の巨人戦で槙原寛己投手の敬遠のボールをレフトへサヨナラヒット。
2000年、打率.278、ホームランはキャリアハイとなる28本。


阪神タイガース在籍の最終年度となる20世紀ラストイヤーの2000年
の成績が良かったので、
晴れてメジャーリーグへの夢を叶えることができた。

自由奔放に見えて、
タイガースのタテ縞ユニフォームに袖を通している間は
かなり窮屈そうだった。


タイガース時代の
このベスト9カードが発売されたのが2001年。
もちろんその時点では新庄さんは、日本にいない。


メジャー移籍初年度は、ニューヨークメッツ。
この年、
外野のすべてのポジションをこなし、119試合に出場している。

なお
メジャーリーグでのルーキーカードはまた
別の機会に出品することにしよう。

 


今回ヤフオクに出品したのは上記の4種類。

 

もちろんどれもお気に入りなので

落札者さんは大切に保管してもらいたいなあ。。

 

48歳にして、日本プロ野球界への復帰を希望する新庄剛志選手。

 

もし実現すれば

これら過去の野球カードが将来、お宝カードとなって値段も高騰するかも。

 

ね。

夢があるでしょ。

 

 

 

新庄剛志さん、現役復帰は投手と打者との二刀流でお願いします。

【3】新庄剛志ゴールデングラブ賞受賞カード

 身体能力バツグンの新庄剛志選手の魅力。

守備の名手であり、ダイビングキャッチを何度か甲子園球場のカメラ席から目の当たりにすることがあった。

 

そもそも守備が上手いのであれば、そんなギリギリのプレーではなく、

打球方向を予知して早めにスタートを切れば良い、

などと分かったようなことをのたまういう御仁がおられる。

 

そんな方に問うてみたい。

 

「ならば、アンタは出来るのか?」

 

広い甲子園球場だと

ヘタをすれば、3塁打にもなってしまいかねない。

そんなピンチを身体を張って防いでくれたのだ。

 

余談ながら、

平凡な外野フライを必ずジャンプしてキャッチしていた。

理由は、

西日本短期大学附属高校時代に先輩が校舎の2階から生卵を投げて、

それを割らないようにキャッチするためだったからなのだそうだ。

 

われわれカメラマンは【注1】、打球がセンターへ飛ぶたびに、

なぜわざわざジャンプするのか、最初のころは不思議でならなかった。

 

その新庄選手。

バッティングに関しては、以前のブログでもお話させていただいたので割愛するが、

とにかく守備がすごかった。それとあの強肩である。

 

1999年、阪神タイガースの監督に就任して1年目の野村克也氏が、その強肩に魅せられ、キャンプそしてオープン戦と投手で起用したことがある。

 

実現しておれば、メジャーリーガー、大谷翔平選手よりも先に二刀流で話題をさらっていたかもしれない。

ヒザの故障によって断念したということになっているが、後に本人が否定している。

投手というポジションを楽しめていなかったのが真相のようなのだが、

あのまま続けていたなら、大谷選手よりも先に二刀流で話題をさらっていたことだろう。

 

残念でならない。

不可能を可能にする男だけに、本当にもったいない。

 

それにしても野村監督は、本気で投手起用を考えていたのだろうか?

 

1996年のオールスター(東京ドーム)で

パ・リーグの采配をふるった近鉄バファローズの仰木彬監督が

イチローを投手としてマウンドに送り、読売ジャイアンツ松井秀喜選手との

対決で盛り上げようとしたことがあった。

 

このときにセ・リーグ野村克也監督は激怒し、

代打にヤクルトスワローズ高津臣吾投手を起用している。

【注2】

 

さも私しかその場にいなかったような書き方をしてますが

あなたもテレビ、もしくは観客席でご覧になられたかと思います。

 

 つまりプロとしての礼儀は十分すぎるほどわきまえていたはずである。

 

ということは

たとえオープン戦とは言え、

1998年春に2試合登板しているということは

野村監督は本気モードで投手起用を考えておられたのだろうか?

 

残念ながら野村克也監督は亡くなられてしまったので

【注3】

今となっては、確かめるすべもない。

 

ただし

投手の立場から打者への配球を知ることで、それが自身のバッティングにも生かせる

という目的もあったのだろうが、

そもそも新庄選手自身が“宇宙人”なので、相手の配球を読もうなどという意識があったのかどうか。

 

↓ 写真は、現役ゴールデングラブ賞受賞カード2000BBMG18 ↓

 

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2000BBMG18新庄剛志

 

 

二刀流はレギュラーシーズンでは実現しなかったが

やはりチームのピンチを何度となく救った、

あのセンターの守備位置が、一番向いていたのだと思う。

 

外野からの目の覚めるような返球は

イチロー選手のレイザービームに匹敵する。

 

ついでながら強肩といえば

古くは巨人のV9を支えた読売ジャイアンツ高田繁外野手が思い起こされる。

 

『鉄砲肩』なんて表現は最近こそ、されなくなったが

私と同年齢の西武ライオンズ羽生田忠之選手などのプレーは

いまでもYouTubeで見ることができたと思うので、

機会があれば、ご覧になられるのも良いかと思う。

 

ただし、著作権違反で消されていたなら許してね。

 

 

なおこの新庄剛志選手のゴールデングラブ賞受賞カードが発行されたのは2000年。

その表に使用されているダイナミックな写真、自身の勝手な憶測なのだが、これって阪神イースのキャンプ地、安芸市営球場での紅白戦か何かでマウンドでのピッチングのシーンなのではないだろうか。

 

撮影している角度から、

そんな気がする。間違ってたらごめんなさい。

 

まあ、マニアックな話なんて、どうでもエエかwww

 

新庄剛志さんは

今年になってから現役復帰を目指しているとの発言が話題になった。

 

できることなら

投手と打者との二刀流で復帰してもらいたい。

 

球速は何km/h出るのか? どんな変化球を投げるのか?

プロ野球ファンににそんな夢を描かせてくれる新庄さんって

やっぱりスゴイ人なんだな、と改めて思った。

 

あっ、

地球人ではなく、宇宙人でしたねwww

 

 

【注1】筆者は当時、阪神タイガース担当の新聞社勤務カメラマン

 

【注2】このときのマウンドのイチロー投手、代打を告げられた松井秀喜外野手、打席に立った高津臣吾投手、いずれも後に渡米し、メジャーリーグでも活躍している。

 

【注3】野村克也監督は2020年2月11日、虚血性心不全のため逝去。享年84歳

松井秀喜と新庄剛志のコンビネーション・カード1995BBM#588


【2】松井秀喜選手と新庄剛志選手のコンビネーション・カード

 

1995BBM#588松井秀喜新庄剛志コンビネーション・カード
カードそのものは1995年発売だが、


写真が撮影されたのは
1994年7月20日のプロ野球サンヨーオールスターゲームの試合前。

【注1】下記へ

 

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1995BBM#588松井秀喜新庄剛志コンビネーション・カード

 

え?なんで知ってるかって? 

目の前におったからに決まってるやんwww


ついでながら、
この撮影日からちょうど80日後の1994年10月8日。


中日ドラゴンズ読売ジャイアンツが両チームのリーグ最終戦
同率首位にならび、優勝をかけて直接対決した
伝説のゲーム『10.8決戦』が繰り広げられることになろうとは
このときの2人は予想もしていなかったであろう。

 

さらに
この2人が将来、海をわたってメジャーリーグ
しかも四番を打つことになろうとは
夢にも思わなかったはずである。


「何を当たり前のことを言っているのだ!」 って? 

お叱り、ごもっともですwww

 

話は戻って、
このオールスターでは両選手ともに初出場。

この当時、虎番記者から『プリンス』と呼ばれていた新庄剛志選手は、

女性ファンからも人気はあり、しかも一発長打の魅力も兼ね備えたスター選手。

将来のタイガースを背負って立つ主砲になるものと期待されていた。


ウソではない。
本当の話なのだ。


事実、新庄選手は前年まで3年連続で2ケタ本塁打を放っており
1995年は大いに期待されていた。


ではなぜ失速したのか…

ファンのあなたもご承知のとおり
かっぱえびせんと異名をとり、話し出したら止まらない
山内一弘打撃コーチが、新庄選手の打撃フォーム改造に着手。


その結果、
あの新庄選手が悩みに悩んで、マシン打撃の時ですら
ボールが前に飛ばなくなってしまっていたのだ。

まさに被害者である。

シーズン中に中村勝広監督が辞任し、藤田平監督へと交代したことも不運だった。

鳴尾浜での練習に遅刻したことに怒った藤田監督による罰則。

いわゆる“正座事件”を経て、不信感が募り、その年のオフに球団事務所での
記者会見での引退発言。

「センスがないんで…」

あのとき辞めてなくて良かったと
心の底から思っているのはファンだけでなく
本人自身だろう。


いわゆる
「たられば」を言うとキリがないが、
もしも新庄選手が、あれほど注目を浴びない阪神タイガースではなく
別のチームに所属しておれば、また違う打撃成績になったのでは
ないだろうかと悔やまれる。


いやそんなことないか…?


まあ、ええやん。
あまり厳しいツッコミはやめとって。

 

最後に1995年のBBMコンビネーション・カードに
掲載された巨人と阪神の若き両主砲のその後の
通算成績を比較してみた。

           NPB     MLB

松井秀喜 打 率   . 304       .282

     本塁打 332本  175本

     年 数    10年      10年

新庄剛志 打 率    .245    .254

     本塁打   205本     20本  

                  年 数  13年     3年

 

【注1】

1塁側のファウルゾーンあたりで撮影。背景に見えるレフトスタンド後方のマンションに当時、同僚が住んでいた。

プリマハムの看板が見えるが、ライトスタンドの右中間照明には、あのムッターハムの看板があった。