松井秀喜と新庄剛志のコンビネーション・カード1995BBM#588
1995BBM#588松井秀喜&新庄剛志コンビネーション・カード
カードそのものは1995年発売だが、
写真が撮影されたのは
1994年7月20日のプロ野球サンヨーオールスターゲームの試合前。
【注1】下記へ
え?なんで知ってるかって?
目の前におったからに決まってるやんwww
ついでながら、
この撮影日からちょうど80日後の1994年10月8日。
中日ドラゴンズと読売ジャイアンツが両チームのリーグ最終戦で
同率首位にならび、優勝をかけて直接対決した
伝説のゲーム『10.8決戦』が繰り広げられることになろうとは
このときの2人は予想もしていなかったであろう。
さらに
この2人が将来、海をわたってメジャーリーグで
しかも四番を打つことになろうとは
夢にも思わなかったはずである。
「何を当たり前のことを言っているのだ!」 って?
お叱り、ごもっともですwww
話は戻って、
このオールスターでは両選手ともに初出場。
この当時、虎番記者から『プリンス』と呼ばれていた新庄剛志選手は、
女性ファンからも人気はあり、しかも一発長打の魅力も兼ね備えたスター選手。
将来のタイガースを背負って立つ主砲になるものと期待されていた。
ウソではない。
本当の話なのだ。
事実、新庄選手は前年まで3年連続で2ケタ本塁打を放っており
1995年は大いに期待されていた。
ではなぜ失速したのか…
ファンのあなたもご承知のとおり
かっぱえびせんと異名をとり、話し出したら止まらない
山内一弘打撃コーチが、新庄選手の打撃フォーム改造に着手。
その結果、
あの新庄選手が悩みに悩んで、マシン打撃の時ですら
ボールが前に飛ばなくなってしまっていたのだ。
まさに被害者である。
シーズン中に中村勝広監督が辞任し、藤田平監督へと交代したことも不運だった。
鳴尾浜での練習に遅刻したことに怒った藤田監督による罰則。
いわゆる“正座事件”を経て、不信感が募り、その年のオフに球団事務所での
記者会見での引退発言。
「センスがないんで…」
あのとき辞めてなくて良かったと
心の底から思っているのはファンだけでなく
本人自身だろう。
いわゆる
「たられば」を言うとキリがないが、
もしも新庄選手が、あれほど注目を浴びない阪神タイガースではなく
別のチームに所属しておれば、また違う打撃成績になったのでは
ないだろうかと悔やまれる。
いやそんなことないか…?
まあ、ええやん。
あまり厳しいツッコミはやめとって。
最後に1995年のBBMコンビネーション・カードに
掲載された巨人と阪神の若き両主砲のその後の
通算成績を比較してみた。
松井秀喜 打 率 . 304 .282
本塁打 332本 175本
年 数 10年 10年
新庄剛志 打 率 .245 .254
本塁打 205本 20本
年 数 13年 3年
【注1】
1塁側のファウルゾーンあたりで撮影。背景に見えるレフトスタンド後方のマンションに当時、同僚が住んでいた。
プリマハムの看板が見えるが、ライトスタンドの右中間照明には、あのムッターハムの看板があった。