Akira野球カード出品中

プロフォトグラファー。 新聞社勤務時代の1995年、野茂英雄投手がメジャーリーグ挑戦した時に、全米各地を転戦。 野球カードマニアだった某社の野茂担当記者に影響を受けて、その魅力にハマる。 日本国内では趣味の範囲内で野球カードを収集。 引っ越しのために過去にコレクションしたカードをヤフオクに出品中。

カードショップAkiraの店長ってこんなオッサン。自己紹介も兼ねての回顧録

こちらのブログをご覧頂きまして、ありがとうございます。

 

かなりの長文となります。

最後までおつきあいください。

よろしくお願いします。

 

カードショップAkira。といっても別にお店があるわけではない。

SNSでアカウント名を作らないといけないので、テキトーにつけただけ。

 

本職はプロフォトグラファー。

 

ほとんどの方が

「オマエ誰やねん?」

ってな感じでしょうから、自己紹介を兼ねて経歴を紹介させていただきましょう。

 

昭和63年(1988年)に関西学院大学【注1】を卒業して、産経新聞大阪本社に入社。

この新聞社を選んだ理由は、サンケイスポーツというスポーツ新聞も発行しているので、そちらで仕事をしたい、というものだった。

まあ、あの論調が好きだというのもありましたから。

 

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新聞社勤務時代に1面に掲載された写真。新聞社勤務時代の1面掲載写真。2006年W杯ドイツ大会アジア最終予選の日本―北朝鮮戦@バンコク

 

駆け出しの記者だった1988年は、

阪神タイガース史上最強の助っ人と言われるランディ・バース選手が息子さんの病気の治療のために帰国してそのまま退団。

同じくタイガースの日本一を支えた掛布雅之選手が33歳という若さで現役生活に別れを告げた。

タイガース暗黒時代の到来の序章でもある。

 

私鉄を親会社に持つ在阪の老舗球団、南海ホークスダイエーに、阪急ブレーブスオリエント・リース(現オリックス)にそれぞれ身売りをするなど球界の激震に遭遇することとなった。

 

つい1年前までは単なるプロ野球ファンの大学生だった自分にとって、

信じられないことが次々と目の前で起こっていくのだ。

 

いったい、この先どうなるんやろ?

まさか近鉄バファローズは無くならないよね?

なんて当時は心配していた。

 

まだサッカーのJリーグが発足する前【注2】、ラグビーワールドカップで日本にブームが湧き上がるはるか以前のできごとである。【注3】

 

なお関西というエリアは、春はセンバツ、夏も高校野球。年末年始は花園で高校ラグビーと、高校スポーツの全国大会が開催される。

昭和50年(1975年)までは、高校サッカーも関西で開催されていたのは、あなたもご存知のことだと思う。

別にわざわざ東京へ行かずとも、関西でもいろんなスポーツに触れることができた。

 

 

まあ、

なんだかんだと振り回された入社初年度だったが、

翌1989年から希望通り、写真部への配属された。

 

1991年の秋季キャンプからは、阪神タイガースを担当し、亀新フィーバーのあった1992年こそ優勝争いをしたものの、まさに暗黒時代にお付き合いさせていただくことになる。

 

自分自身にとって転機となるのは、

近鉄バファローズの野茂英雄投手がメジャーリーグに挑戦し、ロサンゼルス・ドジャースと契約し、渡米したことだ。

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『野茂アメリカを救ったDr.K 』 1995年発行 Gallop緊急増刊号P.55掲載

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1995年7月9日初めて訪問したメジャーの野球場は、シンシナティ・レッズの本拠地リバーフロント・スタジアム

初めて目にしたメジャーリーグの“ベースボール”は、かつてヤクルトスワローズに在籍したボブ・ホーナーが語ったように、自分がいままで見てきた“野球”とはたしかに異質なものだった。

新人王を獲得したこともあるドジャーズの主砲、マイク・ピアザ。2アウトランナーなしで放った打球はピッチャーゴロ。すると、なんとなんと、ファーストベースまで全力疾走するではないか。まるで高校球児そのものである。

 

他のメジャーリーガーの姿勢もそんな感じだった。

いかに日本の野球が、来日した外国人選手からナメられているか、初めて知る事になる。

 

力vs力の激突。抑えの切り札がストレートを打たれたならば、次の打者にもストレート、また次の打者にもストレート。連打を浴びてもひたすら同じ球種で勝負する。

 

なんでやねん! 配球とか考えろよ!

思わず叫んでいた。

 

日本のように応援団がいないから、ひたすら退屈である。

スタジアムのアナウンサーが盛り上げようとするのだが、こと応援に関しては日本の方がはるかに盛り上がるし、熱狂的。比べ物にならない。

 

 

野茂投手が日本人として初めてMLBオールスターの先発マウンドで投げる勇姿。

ヒューストン、マイアミ、シカゴ、セントルイスピッツバーグ…。どこにいっても超有名人で、日本人として誇らしかったな~。

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1995年9月12日シカゴのマイケル・ジョーダン・レストラン前で。買ったばかりのエアマックス95イエローグラデーション。インターネットがまだ一般に普及していない時代。1カ月後に帰国してから人気が出ているのを初めて知った。

 

 

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オールスターゲーム@テキサス州ボールパークインアーリントン 1995年7月11日『野茂アメリカを救ったDr.K 』 1995年発行 Gallop緊急増刊号P.70~P71掲載

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『野茂 アメリカを救ったDr.K』1995年発行 Gallop緊急増刊号表紙

↑ 1995年ナ・リーグ西地区優勝の瞬間@カリフォルニア州サンディエゴ

 

サンディエゴでのナ・リーグ西地区優勝の瞬間にも立ち会えたこの平成7年(1995年)は生涯、忘れられないものとなった。

 

このとき、某スポーツ新聞の野茂番記者メジャーリーグカード収集家でもあった方に影響を受けてカードを集めることとなった。

 

翌1996年のフロリダ州べロビーチは、お昼頃には仕事が終わるので

あまった時間を利用してフロリダ半島のカードショップ巡りをした。

どんな街にもカードショップがある。

アメリカの文化として根付いていいるのだろう。

 

日本ははるかに及ばない。

悔しい~

 

いまヤフオクに出品しているのは、帰国してから日本のカードショップで購入した野球カードがほとんどだ。

 

もっと、ショップの人だけでなく、いろんなコレクターがヤフオクやメルカリに出品して、売買が盛んになればいいと思う。

 

 

そしたらもっとトレーディングカードの値打ちも上がるのではないだろうか。

 

いまの小学生が大人になったとき、コレクションしたトレカを売りに出せば、

ビックリするような値段がついた!

 

なんて話、夢があっていいと思う。

 

個人的にはカードが投資の対象となるような、そんな世界を夢見ているのだが、

いかがだろうか。

 

こんな長文を最後までおつきあい下さいまして

ありがとうございました。

 

 

これからも

よろしくお願いします。

【注1】『関西学院』と書いて、『かんせいがくいん』と読む。アメリカンフットボールの悪質タックル問題で日大の監督が、『かんさいがくいん』と読んで、OBOGから大ヒンシュクを買った。個人的には読みにくいので、変更しても構わないと思っている。

 

【注2】Jリーグの発足は平成4年(1992年)のことである

 

【注3】ラグビーワールドカップ2019日本大会で日本ににわかラグビーファンが増えて、ラグビーブームが到来する。

どうでもいいことながら、筆者は大阪府立美木多高校時代ラグビー部だった。とにかく弱かったけど、今となっては楽しい思い出である

 

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